村爺のちょっといいはなし

第二十八回 戦争の思い出

 

〔戦争の思い出〕

恐ろしい戦争が終り娯楽と言えば何があったのか、今は娯楽が有り過ぎて思い出しません。命を明日に繋げる事が大きな仕事のような戦争を経験した者には、戦後の空腹の中、目に映るもの何でも目新しく明るく楽しいものに見えた事でしょう。

戦争が終りもう直ぐ60年になろうかと言う今、考えると不思議なのは毎日小学校に登校し、お昼前後に空襲警報が発令されると授業を止め、学校から一斉に自分の村に向けて帰らされます。学校は点々とある村落の中間に有り、廻りは田んぼです。そんな所からクモの子散らすと言うか四方にある我が村に走って帰る中、何度も艦載機の機銃照射や威嚇するように低く頭の上を飛んで行く恐ろしい目に会いながらも登下校していました。

勉強を止める訳には行かない程、教育重視されていたんでしょうね。今は台風が来るのでお休みと言う時代が羨ましいです。でも日本国としては空襲があるから、今週は休みと言う訳には行か無かつたのか。毎日朝行くと跳んで帰る同じ様な事していました。 運動場を通る道だけ空けて持ち寄つた鍬で運動場を耕し、サツマイモを植えました。水遣りも生徒の仕事です。今考えると殆んど勉強はしていません。 今も不思議なのは沢山(と言っても痩せた土地の運動場ですから)取れたサツマイモは何処に行ったのか、食べさしては貰いませんでした。

仲間には直接弾に当つた者はなかつたと思いますが、警察や軍の人が10数センチある真ちゅう色した機関銃の弾を掘出していました。田んぼの真中に2階建ちの家がスッポリ入る様なスリバチ型の穴は、1トン爆弾だと教えてもらい村中の人が廻りに佇んでいました。あそこが爆撃された、あそこに落ちたと言うと怖いもの見たさに作業を見に行きます。

これが今日まで命があつたと言う証なんでしょう。村では今でも何の時間の意味かは知れませんが、火事の時はもちろんお昼間にサイレンが鳴ります。 戦争を経験する者は何から何までサイレンの音には馴染めないものです。いまも火災を知らせる為に鳴らされる断続したサイレンの音は、遠い昔の太平洋戦争当時をそして空襲警報を体が覚えているのか、忘れていた意識が甦ります。 戦時中は他国の放送も聞く事は出来ませんでしたから、NHK放送だけです。短波放送を聞く事はスパイ行為と見なされたと思いますが、もう少し年齢が上だと自分で作つて居たかも知れません。戦争が終り部品が手に入る様になると中学生頃からラジオ作りに興味を持ち時間有ればハンダ鏝持って、作ってはつぶしの繰り返しをしていました。もう少し早く生まれていたらスパイ行為で牢獄へ、悪く行くと銃殺、または兵隊さんで戦場に行き、どの様に人生が変っていたか知れません。

大阪市内が空襲に遭うと必ず空がまつ黒になり、そして雨が降りました。空からは新聞や本のページの一部が舞い落ちて来ます。庭で焚き火をして燃えかけの新聞や広告等が舞い上がるのが見れますが、数拾Km派離れた所に燃えた破片が降ることは凄い火災と言う事が判ります。

空襲が終り郊外電車が動くようになると田舎の親類を求めて、それこそ着のみ着のままと言うか空襲の中を逃げて、やつと戦争の恐怖が無い場所に来られベンチや駅周辺に座り込んで居られる人を見かけました。そのような事で生徒も疎開で親戚を頼って来た人も多かつたと思います。戦争前後に出たり入ったりの組の生徒に、今の様なお別れ会も無く殆んどお互い記憶も無いままに別れています。

戦争中はこの世の中とはこんな物と言う考えが当たり前になり、今の様に平和と言う物を想像する事は有りませんでした。戦後60年近くに成りあの頃の惨めな生活をテレビのニュースを見る時あの頃の私達を見る思いがします。

 

 

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